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じりりりりーん! 狭い六畳間に、起床の時間を告げるベルが鳴り響く。これが鳴りだしたからには、私はすぐに起きなければならない。温もりを残した布団が恋しいが、背に腹は変えられない。布団をはねのけて、ベッドから飛び降りる。すぐに時計にとびつき、騒々しいベルを停止させる。いかに世界のド●えもんといえども、私の平手打ちにかかればイチコロだ。いや、別に奴の頭部に付いているボタンを押しさえすれば、私でなくとも簡単に止めることができるのだが。 現在時刻を確認しよう。……七時四十一分?何ぃっ!しまった、不覚!私としたことが、一時間も寝過ごしている!これはもう家を出ていなければならない時間ではないか!まずい、このままでは一週間連続遅刻タイ記録を樹立してしまう!ここまでくると単位さえ危 うくなる。あまりに危険だ…… とにかく、急いで身仕度をしなければならない。私はクローゼットに猛進し、適当に服を選んでひっつかみ、三十秒で着替えを終了させる。おお、これは最短記録。……などと感心している暇はない。速攻で洗面所へ行き、顔を洗ってから、歯を磨きながら髪の毛を梳かすという荒業をやってのける。左側が少しはねているが、仕方がない、無視する。 「純子!起きてるの?ご飯は?」 リビングから母の声がする。 「いらなーいっ!もう行く!」 私は叫んだ。朝食を食べる暇など存在しない。不健康だが日本の学生の多くはこんなものだ。腹は空くが我慢しよう。いや、我慢せざるをえない。 私は部屋へ戻ると、床に放ってあったスポーツバッグに教科書とノートを突っ込む。宿題があった気がするが今更どうしようもない。勢い良くバッグの口を締め、肩にかける。 「いってきまぁす!」 私は部屋から玄関へ飛び出した。その早さたるや、廊下に私の残像が残っていたのではないかと思えるくらいだ。 庭に止めてある自転車に飛び乗り、異常なスピードで家の敷地を飛び出す。現在時刻、七時四十八分。私の愛機、ギルバート・改を最高速度で飛ばせば、駅前の駐輪場には三分で着ける。なんとか七時五十三分の電車に乗れば、一時間目には間に合うはず。ギルバート・改をかっとばして、坂を下る。信号が赤なのも気にしない(良い子はマネしちゃいけません)。歩道いっぱいに広がって喋っているけしからん小学生には容赦なくベル攻撃をお見舞いする。その騒音にかなうものはいない。びっくりした顔の彼らが私に道を譲る。 そうこうしているうちに、駐輪場が見えてきた。前の坂道で加速した自転車は、すでに止めてある自転車すれすれのところで停車する。危ない危ない。何食わぬ顔で自転車を隣の自転車に合わせて止め直して、自転車整理のおじいさんに異常なほどさわやかな笑顔を送りつつ、その場を走り去る。ここからは私の足だけが頼りだ。残された時間はあと一分。しかし、《突風》の異名をもつ私に不可能はない。一昨日買ったばかりのスニーカーがうなる。心地よい爽快感!ははは、軽い軽いっ!まるで何も持っていないかのようだ!私は 遅刻しそうであると言うことも忘れて、喜びのうちに走った。 しかし。 ……待て。何も持っていない、だって……? もしかして…… やはり…… 一瞬の空白。 刹那、私は百八十度逆方向へ猛ダッシュした。 畜生。私としたことが、自転車のカゴにカバンを忘れて行くとは……おかげで五十三分の電車を逃してしまった。そんなわけで仕方なく八時ちょうどの電車に乗ったのだが、各駅停車で一駅一駅停まるのがもどかしい。中央線直通の、込みあった電車の中で、私は走りそうになった。が、しかし、それは無駄なだけなので我慢する。朝食を抜いたがための空腹が今頃になって私に襲いかかってくる。くそっ、あんなミスさえなければ、今頃は……などと考えていても仕方がないことぐらい、私にだってわかっている。 地元の駅から高校の最寄り駅まで、約二十二分。電車を降りて、駅をダッシュで脱出するまでが約一分。そこから学校の、二階一年H組教室まで、普通に歩いていけば約十一分。走れば……ギリギリだが、間に合う。いや、間に合わせてみせる。《突風》の名にかけて! そうだ、一時間目はなんだったか? 私はポケットから携帯電話を取り出して、スケジュールを確認する。今日は金曜日だから……おお。現代国語……現国。教師は吉川先生、通称仙人だ。仙人は今までの経験からして、絶対に時間通りには現れない。始業は八時半だが、彼の場合は大抵八時三十五分ごろに現れるのだ。よし。これなら大丈夫。万が一私が八時半に学校に着かなかったとしても、吉川先生が授業を始めていなければ欠時だの遅刻だのが付くはずもない。万事オッケイ。完全無欠。無問題! おう、そんなことを考えているうちに、駅が近づいてきた。私は急いで左側のドアに張り付いて、いつでも走れるように臨戦態勢をとる。そして電車はホームに滑り込んだ。ぷすー、という音とともに、ドアが開く。 私の背後、右側のドアが。 そこに固まっていた、たくさんの人々が、足早に車内を出て行く。 一瞬の空白。 瞬間、私はそのドアへとダッシュした。 ち……くしょう!! 私としたことが、ホームの方向を失念するとは……時間のロスだし、何よりかなり恥ずかしい。ああ、私はなんて馬鹿なんだ! しかし考えている暇はない。急がなければ! おりしも時は八時二十四分。すでに駅は抜けた。後はまた、自らの足を信じ るだけだ。さあ、ダッシュダッシュダッシュ走れ走れ走れ!!! やはり私は走ることに快楽を見出しているらしい。頬を切る風が気持ち良い。まさにランナーズ・ハイ。私は今、きっと笑っているに違いない。ちょっと怖いけど、仕方がない。 さすがにこの時間になると道行く高校生はまばら、というかほとんどいないようで、道は空いていた。今、私、《突風》を遮るものは何もない! ふははははははっ!!! しかし。 異常なほどハイになった私の目前に、不穏な赤い影が見えた。いや、赤い光か。 それは私の視線の上で、冷然と輝いていた。 今の私にとって、走ることに障害があるとすれば……まさに、こいつしかいない。 そう、つまり、 赤信号。 さらに悪いことに、この交差点は道は狭いのにやけに車通りが多いことで有名であった。従って信号が変わるのも遅いし、信号無視をしようものなら私は学校ではなく天国か地獄についてしまうだろう。まあそこまで行かないにしても、多少の怪我は避けられないだろう。学校に間に合うどころか、一日休まなければならないかもしれない。それはまずい。 仕方ない、私は走るのをやめて立ち止まった。この交差点を抜ければ、学校までは五十メートルもない。なあに、この程度ならきっと平気だ。私に不可能はない! 信号が青に変わった。私はそれとともに地面を蹴り、学校までの短い道のりを走った。走って走って……正門の前まで来た。もう、あと数センチで学校の敷地内、というところで、 きぃーんこぉーんかぁーんこぉーん…… 非情な始業ベル。勝利の女神は、私には微笑んでくれなかった。 敗北の予感に一瞬、気が遠くなる。 しかし。しつこいが、しかしだ。一時間目は現国だ。吉川先生だ。まだ、まだ……まだ間に合う! さあ急げ、走れ! 私は走った。とにかく走った。自己新記録級の速さで校舎内に滑り込み、階段を駆け上る。まだまだ! 廊下を走り、最奥のH組の前まで来た。やっと、やっと辿り着いた! 今までの苦労が、一瞬にして頭の中を駆け巡った。ああ、なんと辛い道のりだったか……しかしそれもここで終わる。私の戦いは、終わったのだ! 私は余裕の目つきで教室を見た。ドアは閉まっている。クラスメイトの姿が見える。始業後だけあって皆着席している。しかしなんだか様子が変だ。生徒以外の声がする。これは、これは……まさか! がららっ 私はドアを開けた。 「おお、大橋か。遅いぞ! とっくに一時間目は始まっているんだ!」 敗北だ。完全なる敗北だ。弁明の余地もない敗北だ。何たる醜態、何たる無念!《突風》ともあろう者が…… 「早く席に着け。そうだ……遅れてきた罰に、これを解いてみろ」 私はそそくさと席について、先生の示す黒板を見た。そこには数学の問題が書かれていた。 結論からいえば、こうだ。 金曜の一時間目は、確かに現国で間違いなかった。 間違いなかったのだが…… 吉川先生が出張で不在だったため、その時間はブランクになるはずだったのだ。 しかし、そのブランクに気付いた数学の芳賀先生……ハガセンが、授業を入れてしまったのだ。 要するにブランクジャックであった。 吉川先生とちがって、芳賀先生は時間に厳しい人だ。八時半が始業なら、その時間までにはきっちり教室に入っている。 何たる……不運。まったく運が悪かったとしか言いようがない。ああ……これで一週間連続遅刻だ。四月からこんな調子では、先が思いやられる…… 私は、罰として与えられた、数学の応用問題十問を前に、ため息をついた。 |